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縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?

三内丸山遺跡などでも有名だが、ストーンサークルと呼ばれる遺構は、北海道から東北地方に集中している
図・写真は「大湯ストーンサークル館」 [1]より引用
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これらの遺跡は約3,500~4,000年前にできたと言われているが、何故、この時期に現れ、しかも、北方にしか発達しなかったのか?
また、当ブログでもnaotoさんが「縄文人にとってお墓とは何だったのか?」 [2]でも述べていますが、
>彼らが望んだのは、集団の永続的な安定と繁栄。成員の死に際しても、個人の死→埋葬という行為を超えて、集団の共同行為として墓制をとったのではないでしょうか?
と言うように、何故、この時期に集団統合力を強める必要があったのか?
考えれば考えれ程、ますます疑問が湧いてくるばかりです。
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この時期の、状況を再度整理しますと、
先ず、縄文の人口は中期(4~5千年前)に最高に達し、それ以降は減少していった、と言われています。
これは、どうも約1万年前を境に、地球は温暖化し、日本だけでなく世界的に人口が増えていったようです。
集団の人口が増えると、食糧を確保する為に集団はある程度分散する必要があったのではないか?
ただ、分散しただけではそれまで一緒に暮らしてた部族がバラバラになり、何らかの形で元の集団を統合する必要があったのではないか、と言うのが1つ仮説です。
一方、この頃、東アジアでも大々的な民族移動が起こっています。
写真は「変身のための起源論」 [5]より引用
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モンゴル高原~南シベリアでは、原アルタイ族が目覚ましい放散を遂げ、東方の④ツングース祖族、中央~南方の⑤モンゴル祖族、西方の⑥テュルク祖族と三分岐しました。
ちなみに、北海道のアイヌはこのツングース族が祖先ではないかと言われています。
また、モンゴル高原においては、鹿石と呼ばれるものが知られており、下の写真のように、高1~3mほどの方柱状の石に鹿などの図像を彫りこんだもので、鹿とともに彫りこまれた剣や戦斧などの武器が、前2千年紀から前1千年紀の初期騎馬遊牧民文化の始まりの頃と強い関係を持つと言われており、これがストーンサークルの原形ではないかと思われます。
写真は「セム部族社会の形成」 [6]より引用
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ツングース族が日本に住みつき、徐々に縄文人と混血する中で、彼らが持っていた統合手法を広めていったのか、既に、この頃大陸との交流が積極的に行なわれ、交流する中から、縄文人が彼らの文化を取り入れたのか、どちらか分かりませんが、いずれにしても人口増と、他集団との接触が高まるなかで、縄文人が集団統合力を高める必要があったのではないか、というのが現在のところの仮説です。
(黒曜石で交流があった事は、 「縄文文化と現代」 [7]でも紹介されています)
また、naotoさんが言われるように、ストーンサークルがどのように利用されたかは、祭祀説と墳墓説があるようですが、離れ離れになった集団が、何かある度に集まって、祖先を弔う儀礼や、皆が一緒になって祭りを行なう場所として、シンボルとなるものが必要であったと考えられ、どちらの説も正しいのではないかと思います。

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