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考古学の危うさ~「水野集落論」より

るいネット「縄文集落論の変遷(1)」 [1]でも扱われていますが、縄文時代の集落論の代表的研究者である水野正好氏は、祭祀・宗教の観点から縄文集落の解明を行いましたが、これは考古学会でかなり認められた学説のようです。
ちなみに、水野集落論とは
1・縄文時代、単婚的な「小家族」がすでに登場し、二軒の住居を一単位として成立していた。
2・小家族の上位に、埋葬・消費・政治の基本単位である六軒=三小群から構成される「家族」が存在していたことを指摘。
3・三小家族―六軒の住居を包摂する「家族」=「大群」は、東西の計二群存在し、両群が一体となって「部族」=「集落」構成していた。
4・集落そのものに基盤を置く「広場祭式」、集落~大群間に基盤を置く「葬送祭式」、大群~小群間に基盤を置く「石柱・石棒・土偶祭式」の三類に分類。
 

のように、全体として集落構造と宗教構造とを一体的に復元し、縄文集落の解明を試みたもの です。
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写真はhttp://heritagetravelers.blog79.fc2.com/blog-entry-76.html [2]より引用
ところが、他の考古学者からは、これは捏造ではないか? との反論も出ています。“考古学ってどんな研究や、どのようにして学説を立てているのか?”を知る上で面白い記事なので紹介します。
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与助尾根集落論―もう一つの「不都合な真実」 [5]佐々木藤雄より
>「茅野市にある国の特別史跡尖石遺跡は、縄文集落研究の発祥の地として、日本考古学史の上に永遠に記念されるべき重要な遺跡である。ここでは昭和5年(1930)から同18年まで、地域研究者として育った宮坂英弌が、教職のかたわら、自らの財産をなげうって、営々と独力で発掘を続け、53ヶ所の炉址、33ケ所の住居址を発見し、縄文時代のムラのほぼ全容を、全国ではじめて明らかにするという偉大な業績を残した。太平洋戦争後も宮坂は縄文集落の研究に精魂をうちこみ、尖石遺跡に隣接する茅野市与助尾根遺跡で、総計28ケ所の住居址を発掘し、ついに一単位の縄文集落の全掘に成功したのである。」
>こうした一つの集落の住居群の構成を、その集落の住民の社会構成としてとらえようとした最初の研究は、1969年に水野正好によって、茅野市与助尾根遺跡の資料にもとづいて試みられている。

一方、
1998年に行われた試掘調査によって新たな遺構の分布が明らかになっている。
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この調査により、新たな事実が発見された。
①1998年の調査で新たに発見された遺構を加えると39軒まで増加する。
②1930年の調査住居は実際の位置とズレがある。
③各住居の所属時期は、数十年、時には数百年という時間幅をもつ住居群を同時存在として見なしている。
④新たに発見された11軒のうち4軒は住居群の北側に分布し水野の言う集落全体(二大群12軒)―大群(三小群6軒)―小群(2軒一単位)という集落分割案では説明できない位置にある。
⑤東西に細長い台地に沿って弧状に広がると考えられていた与助尾根集落は、略環状、ないし北東に開く馬蹄形状を呈していた可能性が強く、新たな視点からの検討が必要
これに対し、佐々木藤雄氏は次のように述べている。
>今回の試掘調査の結果は、いうまでもなく水野のこうした虚構の集落論の論理・資料両面にわたる全面的な破綻を決定づけるものであり、今後、かれの「二棟一家族論」と「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」が学史的な検証作業の中でのみ生を享受しうることを物語るものであった といえるだろう。
と言うように痛烈な批判を述べている。
重要な視点として、るいネット「考古学に潜む危うい「常識」」の縄文・弥生論争への視点 [6]でも、
人類は豊かになるにつれ、今日的な一夫一婦制に進化していくのが必然のように考古学界では言われていますが、
>人類社会は共認によって統合されるが、私権社会は土地と女の私有権を共認し、それを巡って合い争う事で勝者敗者が生み出され、それが身分秩序のヒエラルキーを生み出し、最終的にはその力で統合される社会である。
の視点なくして、財を所有する家族論を論ずるにはかなり無理があるのではないか?考古学界に潜む固定観念がこのような捏造?を生む要因にもなっているのではないか と思いますが、みなさんどうでしょうか?

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