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3万年も前に神津島と伊豆半島で交易があったってホント?

こんばんわ。黒曜石のtanoです。
黒曜石は生産地が限られており、貴重な贈与品として古来から集団間を行き来してきました。
その最古の記録が3万年以上前に伊豆諸島にあります
。「黒潮圏の考古学」 [1]さんに掲載されていました。伊豆諸島の中に黒曜石の有名な産地として神津島があります。
神津島産黒曜石の交易:約3万2千年前頃、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡から、約180Km南の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。本州島(伊豆半島)と神津島の間には海深200m、幅30Km以上の海が横たわっており、この島の黒曜石を入手するには渡航具(筏、丸木舟)を使用した海上航行が必要であった。
エッ、まさか3万年前に既に黒曜石が流通していたの? 神津島の黒曜石は交易なのか贈与なのか?
はたまた単なる採掘なのか?3万年前に遡って検証してみたいと思います。 😀
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参考に黒潮圏の考古学の著者小田静夫さんの書物について解説された記述も掲載します。 リンク [4]
小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、おおむね4万~3万5000年前の旧石器人、つまり旧石器時代中期の人びとは、チャート、粒紋岩、砂岩などの日本列島内に多産する地元石材を使用していたのであり、黒曜石が本格的に利用され始めるのは、上述したように、2万8000年~2万5000年前からである。しかし、これも小田静夫の「遥かなる海上の道」によるのだが、現在、もっとも古い黒曜石の石器は、3万5000年前の東京・武蔵野台地から出土したものである。これが最大のなぞである。神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか・・・・?量的には他の石材に比べ少量であるが、長野県和田峠産、神奈川県箱根産を主体に神津島産が少数含まれているという。ごく少数であるとはいえ、神津島産のものが含まれているということは驚くべきことである。3万5000年前に、黒潮の激流を乗り越えて、旧石器人が神津島へ行ったり来たりしていたことは間違いない。
小田さんはこれを日本最古?の交易と呼んでいますが、やはりこれは贈与の可能性が高いでしょう。
また、贈与は近接する集団の緊張を緩和するために贈られます。
しかし黒潮の流れに逆行して、近接もしていない180kmも離れた本土になぜわざわざ贈与をしたのでしょうか?小田氏は行ったり来たりと表現していますが、私は島から本土へ行ったんだと思います。
なぜでしょうか? 8)
仮設を2つ立ててみます。

①命からがら逃げ延びた説)
神津島は火山の島です。この小さな島の火山活動は一度始まると火山灰や火山の溶岩は島全体を覆います。島で暮らしていた集団は舟に乗って集団毎、海を渡って逃げ延びたのではないでしょうか。その時に貴重品でもあり道具でもある黒曜石を持ち込んで他集団に渡し、一緒に又は近くで暮らすことを許されたのではないでしょうか?あるいは他集団に渡さなくても単に逃げ延びて島の黒曜石を本土で使っていたのかもしれません。

②黒曜石は海洋民が採掘した説)
航海術を持った海洋民が黒潮で南方から流れてきて伊豆半島に住み着いていた。航海術を持っているため、神津島まで渡ることができた。一部は神津島の住人に、一部はそこで黒曜石を採掘し持ち帰った。その後、伊豆半島の海洋民から周辺集団へ贈与品として贈られ広まっていった。

ただ、人口密度が極めて少ない3万年前に集団が近接して緊張緩和を図る贈与が頻繁に行われていただろうか?火山から黒曜石を持って逃げ延びたというのが妥当ではないかと思いますが。 😉
旧石器時代は人やモノが動く動因は火山活動にあったようです。黒曜石は火山活動と共に人の手によって移動したのではないでしょうか?
曜石は贈与品として頻繁に日本列島を行き来するようになるのは縄文時代の中期以降です。
黒曜石=交易、黒曜石=贈与とするあたりは、少し踏みとどまった方がいいように思います。
👿

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