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弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がった

😀 くまなです
先の投稿 [1]では日本初の戦争犠牲者について紹介しました。(カテゴリーは「弥生―律令時代の戦争」です)
2500~2400年前に九州北部で勃発したと考えられる日本における戦争は、それから100年ほどがたつと西日本各地に広がっていきます。
戦争の広がりは、環濠集落、武器、戦死者・戦傷者の状況からわかります。概要を表にまとめてみました。
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表を拡大して見る [2]
最初の戦争は九州北部に始まります。当時(2500~2400年前)、中国では春秋戦国時代の真っ只中であり、そこでの敗者や難民が大量に渡来し、人口の過密=縄張り侵犯から、戦争が勃発したのではないかと考えられます。
戦争圧力の第二波は2300~2100年前で、これは秦が中国を統一し、朝鮮半島に侵攻した時期です。ここでも朝鮮半島の戦争敗者や難民が渡来したことでしょう。武器の主流は石器や青銅器ですが、大陸では鉄器が普及する時期で、日本においても鉄器が見られるようになります。
そして戦争は、北部九州から周辺へと広がっていきます。
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戦争の広がり方
戦争は、最初は平野部で起こり、のちに丘陵地へと広がっていきます。また、北部九州を勃発点として、100年程度遅れて中国・四国・近畿へと広がっていきました。
これは、稲作に適した平野部をめぐっての縄張り闘争が契機となり、敗者が周辺地域へ押し出される形で、次々と玉突き的に戦争が広がっていったことを示しています。

形質人類学の中橋氏は、考古学の橋口達也氏らと共同して、武器で傷ついた人骨、つまり戦死者や戦傷者の分布が時期を追ってどのように変化するかを、九州北部で調べた。その結果、2300年前から2200年前にはいる頃までは、戦死者や戦傷者は玄界灘に面した平野の中心部に多かったが、2100年前頃になると、平野の中心部では戦死者や戦傷者が減り、平野の端のほうや、平野と平野のあいだの丘陵地帯などで、逆にその分布が増えることがわかった。これは、まず平野部で戦いは激化し、しばらくしてそれが落ち着くとともに、こんどは周辺に及んでいった様子を示す。

守りの施設についても、2500~2400年前の環濠集落が、おもに玄界灘に面した福岡平野に作られていたのに対し、2300~2200年前には、南の佐賀平野や福岡平野との境界になる三国丘陵一帯に分布がひろがる。
(引用・参照は、松木武彦「人はなぜ戦うのか」より)
では、戦争は誰と誰が戦い、縄文人はどうしたのでしょうか?
次回をお楽しみに~☆

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