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日本人の基層には西の文化がある!

Posted By tano On 2007年7月24日 @ 8:44 PM In 縄文人の生活技術 | No Comments

こんばんわ。tanoです。久しぶりに投稿します。
今日はこの間からここに度々登場している照葉樹林文化についてです。
縄文時代といえば三内丸山遺跡や東北、中部地方に多くの人口が分布したことからナラ林の落葉樹文化が中心と論じられていますが、弥生以降の農耕文明を作り出し、現在の日本人の基層になったのは縄文時代に培った照葉樹林文化の中にあると言われています。

「縄文文化と日本人」という本の中で佐々木高明氏が詳しく書いています。
この本の中では容易にサケ等の海洋資源やクリ、トチなど容易にそのまま食べられる食料が手に入るナラ林文化とかなり工夫をしなければ食料として得られない照葉樹文化の2つが同時並行的に縄文時代に存在していたことが書かれています。
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その書籍の中から今回は照葉樹林文化の特徴と発展、その後の日本に至る流れを紹介したいと思います。私がとても感銘を受けた部分です。
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西日本の地域は、縄文文化の伝統的範囲内にはあるが、縄文文化の比較的早い時期以来、東日本とは明らかに異なる文化的方向を指向して歩み続けてきたようである。この場合、西日本と東日本の文化の差を生み出した要員はさまざまなものが考えられるが、なかでも東日本の《なら林文化》とは系統の異なる《照葉樹文化》の影響が、少なくとも縄文時代の前期以降、西日本の地域に及んだことを、私は注目しておきたいと思う。
《照葉樹文化》というのは中尾佐助によってはじめて提唱されたたいへんユニークな文化の概念である。それはヒマラヤの中腹からミャンマー北部、雲南から江南の文化的特色ーーー例えばジャポニカ型のイネの分布やアワ・キビ・イネなどにおけるモチ種の広範な存在、あるいはモチを儀礼食として多用する慣行、漆を利用し、絹をつくり、茶、味噌・納豆・こんにゃく・シソ・麹酒などを作る慣行、さらには水さらし技法などーーーによって特徴つけられる特有の文化のことである。
これらは少なくとも日本の伝統的文化の中に伝承されてきた南方的な文化的特色の内、かなりのものがこの文化に由来すると考えられていることを指摘しておきたい。水田稲作農耕そのものも、もとはこの照葉樹文化の伝統の中から生み出されてきたということができるのである。
また、この照葉樹文化と展開をめぐって、その発展段階を次の三段階に区分けすることを提唱している。

①プレ農耕段階(採取・半栽培文化)~縄文時代の前期には西日本に伝播していた。縄文時代前期の遺跡からはすでに漆製品やヒョウタン・リョウトク・エゴマなど照葉樹林帯を経由して伝来したと思われる作物が出土している。また水さらしによるあく抜き技術がすでにそのころまでに西日本へひろがっていたと推定される。

②雑穀を中心とした焼畑段階(典型的な照葉樹林文化)~焼畑農耕文化は少なくとも縄文時代後期・晩期には西日本の山地に展開していたと考えられる。四国や九州の伝統的な焼畑生産の方式や生活様式の特色を分析してみると、それらの大部分は東南アジアや中国西南部のそれと対比できるものが少なくない。つまり、我が国の伝統的な焼畑村に伝承されてきたさまざまな文化的特色は稲作伝来以降に日本列島において新たに形成されたものとはとうてい考えられないのである。

③稲作卓越の段階(水田稲作農耕文化の成立)~板付け遺跡や菜畑遺跡など、最近発見された九州の初期水田遺跡の状況から判断してこの水田稲作文化は大陸でかなり高い発展段階に達していたと考えられる。しかもその文化は九州地方に根を下ろして間もなく、急速に東海地方の西部に至る西日本一帯の地域に展開したのである。おそらくそれ(稲作伝来)以前に西日本一帯に拡がっていた照葉樹林文化は焼畑とともに若干の常畑や、雨の多い年には水田になり少ない年には畑になるような原初的な天水田を有し、そこで雑穀などの栽培を行っていたと推定される。

このような稲作以前の農耕的な基礎の上にはじめて水田稲作文化の急速な展開が可能であったと考えられるのである。(以上、著書より抜粋、一部要約)
佐々木高明氏は日本の文化をこう語っています。
>北からの文化、南からやってきた文化それらが縄文時代以来数千年の間に、日本の各地で相互に混交しながら、この列島の中に堆積し、今日の日本文化をつくりあげてきたわけである。日本文化のもつある種の柔軟性は、こうした諸要素の混交の歴史のなかから生み出されてきたものとみることができるかもしれない。
水さらしのあく抜きはかなりの高度な技術のようです。これによってイモやドングリのあく抜きが可能になり、硬い硬いドングリを食べられるまで柔らかくすることが可能になりました。栽培に手をつけたのも縄文前期とあまりにも早い段階です。照葉樹林文化とはこのように工夫の連続の中で食料を得ていったのです。
縄文文化は東日本のナラ林文化が中心になって、その後の日本人の本源性の基盤になったと思ってきたのですが、佐々木氏の論説を読むと改めなければなりません。日本人の工夫思考や食加工に対する技術はむしろ西の照葉樹文化を基盤にしており、勤勉性や耐性などもひょっとすると西の文化の中にあったのかもしれません。また渡来人においても江南地方から来た中国人は照葉樹文化圏にあり、北側から来た朝鮮人はナラ林文化圏に位置しています。渡来人においても同じように西と東の文化が堆積したと見ることができるように思います。


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