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縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?

今晩は、さーねです
黒潮圏の考古学 [1]というサイトを今勉強しているのですが、その中でも八丈島の先史時代 [2]で、すごい不思議だなと思うことがあります。

6,000年前にピ-クを迎えた縄文海進時に、縄文人が漁撈活動地域を内陸や沿岸部から近海に拡大し、海洋航海技術を熟達させ外洋を舞台にした縄文集団(海の縄文人)が誕生した。彼らは外洋航海民としての素養を備え、最初は北部伊豆諸島を中心に渡島活動を行っていた。やがて近畿・東海と中部・関東の二地域から、黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島へ渡航した集団が登場する。

黒潮圏の考古学:八丈島の先史時代 [2]の倉輪遺跡より
なぜ、海を渡ろうとしたのか 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで
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彼らが置かれた状況や意識、行動様式を推察してみたいと思います
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まずは、7000~6000年前の縄文海進に焦点を当てたいと思います。
縄文海進で海水面上昇により、それまでの平野に遠浅干潟ができたと言われています。遠浅や干潟は波も穏やかで、丸木舟を出すにも無理はなかった。海進は温暖化している状況ですから海水温も上昇しています。
各遺跡で見られる貝塚の増加も海進と共に増加しています。貝に関しても様々な温暖種が増え、縄文人の食糧が豊富になったと考えられます。それまで、森林での採取や狩猟に頼ってましたが、貝や小魚の方が栄養価も高く、地上の動物よりは量も確保でき採取しやすいと考えられるのではないでしょうか?
主に沿岸の集団が、食糧確保のために丸木舟に乗り「海」へ。これが「海」に可能性を求めたきっかけだったのだと思います。
より可能性を求め、北部伊豆諸島へ
沿岸で航海技術を徐々に獲得し、まずは見える範囲の島々-北部伊豆諸島を中心に…大島⇒利島⇒式根島⇒神津島…というような順序でしょうか?彼らは新たな地を探索し始めたのだと思います。
ここで我々が見誤ってはならないのは、やはり以前として外圧状況は高いものと考えること=食糧確保は最大課題であったということです。より「海」に可能性を求める=豊かな「漁場」を常に探索していたのだと推察すべきと思います。
北部伊豆諸島最果ての御蔵島は、ほぼ黒潮の真っ只中。この時点で、彼らは黒潮を突っ切る航海技術も身に付け、名実共に「海の縄文人」となったのではないでしょうか?
今日の参考サイト
黒潮圏の考古学 [1]
+2℃の世界 縄文時代に見る地球温暖化 [5]

[6] [7] [8]