- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

縄文土器の文様が中期に多様化したのは...

縄文土器の話が盛り上がっていますね。
私も、みなさんが、紹介されている「縄文心象」のHPを手がかりに考えて、見たいと思います。
まずは、問題提起の一文の紹介から。
いったい縄文時代前期と中期の境の時間帯で何が起こったというのだろうか。そして何故縄文文様は突如として複雑になったのだろうか? 
考古学に詳しい人間であれば誰でも知っているこの事実。しかしこの謎は未だに誰にも確定的に解明されてはいないのだ。

(「縄文心象のHP」-謎-縄文時代中期の大きな変化より引用)
http://www.joumon.jp/kaidoku/kaidoku1/kaidoku1.htm [1]
中期の複雑化は、縄文土器ファンの間では、有名な話。しかし、その謎は、未だ解明されていなかったとは...
確かに、中期に土器の種類が増え、文様も複雑になっているようです。
 
 
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(岩手県立博物館HPより)
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/031.html [2]
では、なぜ縄文中期に土器の種類が増え、文様も複雑になっていったのか、少し考えて見たいと思います。
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縄文中期の状況を順番に整理・類推していくと
①気候が温暖になった。
もう少し、厳密にうと、気温が最も温暖になったのは、縄文早期の終わりから前期の初めころ。(6500年~6000年前) 中期には気温が下がりはじめているようですが、生活には影響のない範囲だったのでしょう。むしろ縄文前期からの人口の増加や、生活水準や技術の向上にかかる時間経過による蓄積によって、縄文中期に縄文文化が一気に花開いたのではないでしょうか。
②気候が温暖になることで、自然の恩恵を受けられるようになり、生活が豊かになった。
③生活が豊かになることで、人口も増えていった。
このことは、1つの集団規模自体が大きくなっていった(大きな集団の維持が可能になった)側面と、日本列島に集団が分割し増えていったという二つの側面が考えられる。
大規模集落の事例としては、前期から中期にかけて繁栄していた、三内丸山遺跡があげられるだろう。
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④その結果、集団同士が近接し、緊張緩和のための、贈与品として、ヒスイや黒曜石とならんで土器が使用されていたであろうことについて。
 ここらへんは、前回のエントリーでtonoさんもご指摘されている通りであろう。
⑤集団規模が大きくなることで、集団内の営みが役割分化された。
つまり土器製作を半専門に(集団内でまかされた)した人たちが集団内に生まれきたのではないかということ。その人たちによる、技術追求・蓄積の上に、高度な文様をもった土器の製作が可能になっていった可能性はないだろうか。
⑥生活が豊かになり、多様な文様の土器製作にエネルギーと時間を向けられるようになったという背景も考えられるのではないだろうか。
⑦とはいえ、自然外圧は一定働いているため、まったく生活に関係のないものを文様のモチーフとしてエネルギーを割くとは考えにくく、やはり自然の恵みや集団繁栄の願いを込めたものである可能性が高いだろう。
胴部には畑と蛇が配置され、胴部中央より上に向かって植物が繁茂している様子を表現した巨大取手が2ヶ装着されている。土器の中央には女性人体文が組み込まれている。下から根菜文と重想された男根がつきだしている。女性の頭の部分は口縁部に二重円文で表されている。
優雅で力強い造形に秘められた畑作の豊穣と集落繁栄の祈りである。

(縄文心象HP)
http://www.joumon.jp/kaidoku/kaidoku4/kaidoku4.htm [5]
 
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これらのことは、同じく縄文中期から爆発的につくられはじめた土偶からも推移されそうである。
(土偶は縄文人が観た精霊の姿)
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/02/000129.html [6]
 
 
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<縄文のビーナス>
http://homepage3.nifty.com/yatu/culture/3jyomon.htm [7]
土器や土偶両方とも、集団統合のため、また自然の恵みに対する感謝の気持ちや集団繁栄への願いをこめてつくられていたと考えてもよさそうでね。
となるとより抽象的な文様をまとった縄文土器と、より具体的な形をした土偶との使い分けはどうだったのでしょうか?

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