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縄文時代の集落規模

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以前、「縄文人の集団規模と共認の関係 [1]」で縄文時代の集落が小規模のままで30人以上になることはなかった。とあったが青森の三内丸山では500人から1000人とも言われています。
縄文時代の集団の規模や生活、他集団との交流等もっと知りたくてサイト探索してみました。
少し長くなりますが「縄文文化と現代:縄文村 [2]」からの抜粋、要約です。
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●ムラの形成
・定住
 縄文時代のような低生産力な時代において、気候条件、植生の変化で、定住が困難になる状況は絶えずつきまとっていたから、定住の発端などを議論することはあまり意味がない。基本的には定住生活を可能とする食料の確保が必要最低条件である。
 そこには、木の実のあく抜き法の習得などをともなう森林食物の確保、蛋白源としての中小型獣・魚の確保ガ伴っていたことは言うまでもない。6000-5500年前の縄文前期までには、この通年定住化が普及したといわれる。(岡村編前掲書、227頁、281頁)。
・住居
 縄文時代初頭、住 様式としての竪穴住居の採用は、強固かつ永続的な集落共同体の形成を可能にしたのである。これによって、血族的集団の維持と展開が可能となって、血縁共同体の紐帯を強化するだけに留まらず、親から子へという一系的な文化伝承に加えて、経験豊富な祖父母から孫へという3世代間の文化伝承の契機となっていったのである。ここに縄文文化に確固たる伝承力が芽生え、世代を超えた伝統の形成がはじめられていく。
・ホルド
 これはバンドとも呼ばれ、単婚家族を基礎にして数家族が集合して形成する群共同体である。これがムラの始めであろう。
狩猟採集用に一定地域をもち、この領域内を移動して食物を確保するのである。数時間での徒歩で食料確保が確実になれば、定住がはじまる。

 6000~5500年前の縄文前期になって、木の実のあく抜き法の習得など、森林食物の確保、蛋白としての中小型獣・魚の確保が伴って、定住生活が可能となった。・・・なるほど、、
ドングリ等木の実は堅いし、苦かったり、渋くてそのまま食べられませんが縄文土器を発明したおかげで煮炊きが出来るようになり食生活が安定したんですね。この頃の遺跡から虫歯が見つかる事も合わせて考えると納得です。
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●縄文ムラの規模
○ムラの規模
 まだ侵略戦争が常態化していなかったので、ムラの境界ははっきりしていない。
 ムラの人口規模は、いつにその地域の生産力に依存する。
○小規模村落
・長野県山ノ神遺跡では、10戸40人程度と推定されている。
 (川崎保編『縄文「ムラ」の考古学』雄山閣、2006年、12頁)。
・千葉県若葉区桜木町の加曾利遺跡では10戸内外と推定されている。
 (佐々木高明『縄文文化と日本人』111頁)。
・前期後半、神奈川県横浜市では5軒の集落があり、多摩丘陵では2,3軒の小集落が形成されていた。(戸沢充則監修『東京の三万年』柏書房1984年92-3頁)
・東京町田市の多摩丘陵の遺跡群では、一時期に5-10軒の住居が5群の弧状に配置され、中央広 場をかこむ定形的な集落構造をしていた。(「定形的な集落構造」(戸沢監修前掲書、118頁)
 小規模住宅か、小規模住宅の集団が、多くの地域の平均的な集落規模であろう。
・外国でも、現在の狩猟採集民、熱帯雨林農耕民の社会は「比較的規模が小さ」く、25人(北米西部のグレート・ベイスン)、一拡大家族から100人(アマゾン)、200人(ニューギニアのツェンバガーマリン)であった。(パトリシア・K・タウンゼンド、岸上伸啓ら訳『環境人類学を学ぶために』世界思想社64頁)。
○大規模集落
 しかし、森と川と海の食料が豊かであれば、かなり大規模な集落が展開する可能性があった。縄文
早期末ー前期中頃には、そうした東国地域が森・海の幸と泉の豊かな地域などとなっていた。木の実のアク抜きには豊富な泉が必要であり、泉など水量の豊かなことも不可欠であった。
・東京八王子市の遺跡群(狭間遺跡、椚田遺跡、要石遺跡、小比企遺跡)のうち、椚田遺跡の本格j調査され、住居跡45軒が発掘され、 「直径150mの円周上にならぶ、300軒以上の大環状集落」(戸 沢監修前掲書、108頁)だったと推定されている。
・東京文京区動坂遺跡で、中期住居跡22軒が確認され、同遺跡のアル駒込公園内で重複分をあわせると50件が確認されている(戸沢監修前掲書、111頁)。
・東京小金井市貫井遺跡でも、中期後半の集落群があり、住居跡40軒が発掘されている。(戸沢監修前掲書、116頁)。同武蔵野市の多摩ニュータウン遺跡(中期後半)では、「乞田川と三沢川の分水界から北に向ってのびた小さな丘陵の尾根筋」に住居跡31軒が発見されている(戸沢監修前掲書116頁)
・函館市中野A、B遺跡野発掘で「早期前葉から末葉の竪穴住居跡」407軒が発掘された。ただし、「同時に存在した住居数は少数の単位に過ぎない」とも指摘され、407軒が同時に存在したわけでは ないが、相当数の人口がいたようだ。
・青森県の三内遺跡の調査で、「前期中葉から中期後葉までの・・竪穴住居跡約二百軒、掘立柱建物跡約二十棟」が発掘された。ここでは500~1500人が定住していた。
・青森県六ヶ所村富ノ沢遺跡では、数百軒の集落があった(岡村編前掲書、262頁)。
・福島県西会津町小屋田遺跡、同町上小島遺跡、高郷村博毛遺跡なども、「大規模な縄文集落」があったことを語っている。(橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年、165頁)
・当初は数家族であったろうものが、数百年の間に数家族に膨れ上がったのであろう。血族的人口の 増加であるとみても、それは決して無理とはいえないであろう。食料供給能力さえ増加すれば、数万、数十万規模の集落も出現したであろう。・これが縄文時代の最大の集落人口とされている。自然諸条件に応じて、このムラ人員規模は決まっ たはずであり、扶養できない人員は周辺に散在させて、小規模な「衛星」ムラを造らせていたであろう。
○大規模ムラの頓挫 4000年前頃からの寒冷化などで、大規模村落の維持は困難と成り、周辺に中小規模ムラとして分散していった。例えば、東京地方では、遺跡数は後期後半には3分1に減少し、後期後半にはさらに激減した(戸沢 監修前掲書、130頁)。
 
従って、「バンド社会ー部族社会ー首長制社会」を「進化の過程」(小林達雄編『縄文学の世界』35頁)
などとみることはできない。絶えず、自然の脅威でバンド社会に戻る状況があったのであり、自然との
関係おいて基本的にいささかも「進化」などはみられないのである。

小規模にしろ大規模にしろムラの人口規模は、常にその地域の生産力に依存する。・・・なるほど大規模ムラが寒冷化により頓挫して小規模村に分散したのも食料の確保が出来なくなったからですね、、
また人口や寿命を調べると極めて過酷な自然外圧であった事が分かります。(Re過酷だった人類の生活・・縄文人 [5]

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