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古代の墓の変遷~集団統合から、支配・国家統合の為の装置へ

こんにちは、simasanです。
お墓についての話題で盛り上がっていますが、ここでちょっと、古代の墓の変遷について、時代背景と墓の特徴を整理してみました。
以下、一部
 「お墓の歴史 縄文時代」  [1]
 「日本社会システムの起源」  [2]から引用させてもらってます。
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■縄文時代前期~中期
縄文人は主に採取・漁労生産を中心に生活してきた民族であり、人間も自然の生態系の一部としてその秩序あるシステムによって生きることが可能であったと言えます。自然は恐れの対象でもあり、一方、感謝の念も深く、自然の中で永続的、循環的に生きる組織化された生活様式の装置と制度を持っていたのではないかと考えられます。
%E5%9C%9F%E5%9A%A2.gif抱石葬
古代の集落では死者の埋葬地=墓地は集落の一部、あるいはその隣接地が当てられていた。『土葬』が基本であり、その殆どは『土壙墓』と呼ばれる素掘りの墓に死者を葬っただけの簡単なものであった。
遺体は埋葬の際に手足を折り曲げて、しゃがんだ姿勢で埋葬する『屈葬』が殆どで、時には胸部から腹部にかけて大きな石を乗せた『抱石葬』で葬られていることもある。また、石を抱く形は人が休んでいる時の姿勢、母の胎内にいた時の胎児の姿勢、或いは死者を恐れ死者の霊を恐れた古代の人々が、死者を拘束するためにとった形だとも言われている。
一方、縄文時代後期には「縄文人にとってお墓とは何だったのか?」 [5]にもあるが、大湯環状列石やキウス環状土離など祭場・居住区域共同墓地型の墓が登場。ムラの大規模化と集団の分割、それに伴い墓の区域・祭場・居住区域が明確にされ、共同で祭事や埋葬をい行うことが重視されるようになったと考えられる。
■縄文時代後期~弥生中期
この時代、渡来人によって水稲農耕が持ち込まれ、あっと言う間に,西日本一帯に広がるとともに東北にまでその前線は到着している。また,それにともなう農耕祭祀など多様な文化がもちこまれたと考えられます。
それまで、集落から離れた場所に遺体を埋葬していた古代の人々も、やがて再び人間として生まれ変わることを願ってか、遺体をそのまま保存しようとする埋葬方法に変わっていった。
%E7%94%95%E7%AE%A1.gif甕棺        %E7%9F%B3%E6%A3%BA.jpg支石墓
甕棺墓は縄文時代から一部に見られていたが、甕棺は小型でありもっぱら乳幼児の葬送用であった。生活用品として使用されていた土器とは異なり、墓に使用される棺専用として生まれた。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始める。弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。
『支石墓』は縄文時代晩期に出現した墓制である。下図のように地中に埋められた甕棺の上に数個の支石を並べ、その上を平らな一枚石で覆う様式が一般的である。支石墓は朝鮮半島を中心にアジア各国で見られる墓制であるが、我が国では大陸からの影響を受けやすい九州北部を中心として碁盤型支石墓が多く見られる。
■弥生時代前期~中期
この時代から遺体埋葬地に塚を築く墳丘墓と呼ばれる墓が登場する。
方形周溝墓は近畿地方で発生し、関東・東北・九州とほぼ全国へと普及していった。この墓制は四方を溝によって区画し、その内部に盛り土をしたものである。一辺の長さは5メートルから20メートルほどのものが多く、中には30メートルに達するものもある。中央の盛り土の高さはせいぜい2メートルほどで、発掘された方形周溝墓の中には墳墓の頂部からは木棺墓、側面からは土壙墓、裾の部分からは土器棺墓が出土したケースもある。木棺墓には成人の男女、土壙墓には子供、土器棺墓には幼児や遺児などの遺体が埋葬されていた事から、この様式は典型的な家族墓の形態を成すものといえる。
%E6%96%B9%E5%BD%A2.gif 方形周溝墓
紀元前1世紀前半には,死者を葬った墳墓の数が爆発的に増加し,甕棺墓が整然と長大な列をなして埋葬されるようになる。またこの時期,巨大な土盛りをもち特別な家族が葬られたとみられる墳丘墓が形成される。
紀元1,2世紀には環濠集落の内部に内濠に囲まれた特別の区域があらわれ,物見やぐら(櫓)や特別な住居があらわれる。
紀元2,3世紀には内濠が掘りなおされ,物見やぐらが増加し,さらに,北側にもう一つの内濠に囲まれた区域が登場し,社会は一層の複雑性をみせている。しかし,この大集落も弥生時代末期には外濠,内濠が埋没し,古墳時代にはいると大きな集落は姿を消してしまう。
■弥生時代中期~後期
4世紀には部分水系単位での盟主的首長が存在し、水系単位での古墳造営が行われていたことが、都出比呂志によって分析されている。淀川水系では、古墳時代の古墳造営の系統性から16の首長の系譜が明らかになっている。これは,弥生時代の生産集団単位の首長の系譜が受け継がれている可能性が高いと,都出は推定する。
前述の墳丘墓はこの後に現れる『古墳』との中間点に位置する存在とされる。古墳は方墳・円墳・前方後円墳など様々な形態を有するが、日本では前方後円墳が主流であった。前方後円墳は、渡来人の影響が大きかったにも係わらず、その形は日本独特のものとされている。
一方、墓制における地域色をあげることができる。「一定地方の諸集団が,一定の埋葬祭祀の形態を共有することによって,祭祀的同族というべき関係に結ばれている場合が指摘できる」ことである。
具体的には,吉備地方における埋葬用の特殊祭器,山陰における四隅突出形墳丘墓,北陸における小型方形墓,関東における方形周溝墓,北部九州における鏡の副葬と箱式石棺埋葬などである。弥生時代において,統合イデオロギー形成の意味をもつものが祖霊祭祀であり,この祖霊への参加を示す墓制の重要性からみて,この埋葬形式における共通性は祖霊そのものの擬制的共通化であり,高い政治的意味をもっていたと考えられる。
それは,前方後円墳の意義にも端的にあらわれている。これを考慮すれば,埋葬形式における地域性は,それらの地域が集団の連合をもとに統合性を実現したと考えるべきであろう。
しかし,集団間の抗争,戦争はこのような結合体をこえて,さらに包括的な社会システムの形成に向かった。このことの確実性は,弥生時代の終わり古墳時代の開始の指標とされる前方後円墳の成立にあらわれている。前方後円墳は結合体の首長の墓であるが,同時に大和の政治権力にたいする連合関係にあることを示す象徴ともなっている。
前方後円墳は,初期の埋葬格差のない集団墓地,副葬品における格差の発生,方形周溝墓の形成,弥生墳丘墓などの一連の墓制の発展の過程のなかから生まれたものであるが,いちじるしい画一性をともなってあらわれてきたのである。そして,副葬品として重要性を増大させる銅鏡,とくに三角縁神獣鏡は政治的同盟関係の象徴として大和政権から配布されたものと考えられている。
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