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縄文人にとってお墓とは何だったのか?

旧石器時代には見ることのなかったお墓。
縄文人にとって、お墓とは何だったのでしょう?
「大湯環状列石」  [1]より
《引用開始》
集団墓としてかなり明瞭な性格を示す環状土離に対し、大湯環状列石はその性格をめぐって論争を引き起こしたことはよく知られているところである。
この配石遺構をめぐる論議の一つは、その機能が共同墓地であるか、或いは“まつり”にかかわる施設であるかという点に集約される。
この調査では約100基の組石の中から任意の14基についてその下部が調査され、その多くから幅1×0.7m、深さ約0.7mほどの比較的小さな小判型をした土坑が検出されたが、それらの土坑からは、人骨や埋葬用の副葬品は発見されなかった。
周辺からの出土した土器から、縄文時代後期につくられた可能性が高くなったが、墓である確証は得られず、それが積極的に墓地説を推進する上でブレーキになったのである。
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ここ数年、間接的ながら墓であることを証明する方法が脚光を集めている。
日本の土壌は酸性を帯びる地域が多く、埋葬した遺体が残る事は珍しい。
しかし、人間は多量の脂肪酸を体内に蓄えていることから、土坑の中に残存する脂肪酸を調べると、死者が葬られているのかどうかが解るようになった。
昭和59年(1984)に調査された3基の土坑から採集した土坑中の残存脂肪酸分析により、26試料中22試料から、高等動物に特徴的な脂肪酸とコレストロールを検出し、組石の下に死者が葬られた可能性が高くなった。また、昭和60年(1985)の調査では、配石の下部にある土坑から甕棺墓が検出されるなど、その性格に関する長い論争に決着がつけられようとしている。
墓制を通じ、縄文社会の集団のあり方や社会構造に迫ろうとしていた林氏や春成氏などの研究によって、墓域内における埋葬のグループ分けが成されていた事が明らかになりつつある。そして、それは住居区域との対応関係にあるらしいことも解ってきた。
大規模調査の増加に伴い、縄文のムラの景観がおぼろげながら見え初めているが、縄文時代前期前葉に遡る阿久遺跡(長野県)でも、墓の区域・祭場・居住区域などの共同認識が明瞭に現れているといわれる。
集落の空間規制は、数世代にわたって使用されていると、おのずと集落の分割が成立するものであろうとされる。西田遺跡(岩手県)などに見るように、東日本の縄文時代の集落の基本構造は、中心に円形広場を配し、その外周縁に居住区域を、さらにその周りに廃棄域を巡らすものである。
死者は集落中央の「円形広場」に葬られているのである。円形広場内に共同の墓地を設定する事は、「死と生の間に隔たりが今日よりは遥かに少なく、死者と生者の間に緊密な関係が息づいていることを示しているともいえよう。
墓は本来、埋葬という必要最低限の要求を満たす簡単な空間があればよいものであるが、今日我々の目に触れる大湯環状列石にしても、キウス環状土離にしても、いかにも異様である。
このような墓は、単に一個人の死に対する哀悼と別離を表す埋葬と言う行為を超えて、その時の記憶を固定化しょうとする意味をもっていると言われる。又、配石などの“目印”によって、はっきり墓であることがわかるように作られている点に留意すれば、恒久的な場所となっているかも知れない。
環状列石・土離が共に、世帯による埋葬場所の規制強化の結束と考えられるが、単純に埋葬施設とするのが疑わしい立石をもつ配石は、墓域を区画するための目印であったと推定される。環状列石ないし、環状土離にしろ、その主要な役割は墓であったことは、もはや疑問を挟む余地はない。
これらを舞台に、どのような祭祀や儀式が行なわれたかは具体的に明らかに出来ないが、埋葬と祭祀は相関連し、抜きがたい役割をもっていたと考えられる。このようにみていこと、大湯環状列石やキウス環状土離は、かつてあまりかえりみられなかった死や悲しみといった観念の世界を、今後考古学資料から迫っていける可能性を示した、特筆すべき遺跡であることが理解される。《引用ここまで》
「単に一個人の死に対する哀悼と別離を表す埋葬と言う行為を超えて」
ここに全てが凝縮されていると思います。
彼らが望んだのは、集団の永続的な安定と繁栄。成員の死に際しても、個人の死→埋葬という行為を超えて、集団の共同行為として墓制をとったのではないでしょうか?
視点を変えると、これは、集団統合力の強さを示すものと見ることもできると思います。
これが、弥生・古墳時代の競い合うような墓に繋がっていったのかもしれませんね。

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