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貧乏人は猫を食え(by江戸北町奉行)

😀 くまなです
前回 [1]は、飢饉に際しての美談と悲惨な食人のようすを紹介しました。
江戸時代の飢饉の状況をデータで押さえておきましょう。
グラフ:江戸時代の飢饉と人口推移
edojinkou.bmp
(中島陽一郎「飢餓日本史」のデータから作成)
人口の拡大基調を飢饉が押さえ込んでいるようすがわかります。
飢饉というと‘一揆’を思い浮かべます。

天明飢饉の時、飢饉に迫られた若い元気な人たちは、団結して徒党を組み、各村の穀物ある家々の前に多数集合し、金持ちを脅して押し借りを行ない、承知しない時は腕ずくで米をうばいとった。
暴徒中の過激派は、衆を頼んで城下町までおし寄せ、鬨の声をあげて町に暴れこみ、各米問屋はもちろん、金持ち連中の米倉まで打ちこわした。
このときはどこも同じような有様で、うまく目的をとげた暴徒は、これに味をしめて昼夜とも騒動はたえず、ますます騒ぎは大きくなるばかりだった。

一揆に至る背景には、飢餓という現実がありますが、一方で、統合階級(いわゆる‘お上’)による収奪や危機放置もそれに拍車をかけています。
その状況を見てみましょう。
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貧乏人は猫を食え

天明飢饉のため、米価は毎日、高くなる一方で、天明七年(1787年)四月中旬から、町奉行の高級役人さえも、ひそかに米の買い溜めをするものが続出するという、最悪の事態を招いた。
米の小売りや中売りどころか、大手の米問屋さえ在庫米の不足をきたした。しかも諸国から江戸への廻米も絶無だったから、五月になってからは、とくに米の入手が困難となり、難民も自然増加したので、各町から、誰言うことなく、名主連中が、江戸の両町奉行所へ、お上の‘お慈悲願い’に出頭した。
その際、ちょうど月番であった北町奉行の曲淵甲斐守が、名主連中に申しわたすには、「お上のご威光をもっても米は無い」とか、「貧乏人は猫を食え」などという意味のことを公式の席で、笑いをふくんで申しわたしたので、願い出た名主連中は皆、肝をつぶし、すごすごと力なく帰宅した。

百姓は、死なぬように、生きぬやうに

徳川家康は、三百年にわたる徳川の平和を維持した。そのカゲに、彼は徳川家の存続を、最高目的とした。その目的実現に全精力を絞った。その証拠として、家康の遺訓に「百姓は、死なぬように、生きぬやうに、合点致し収納申付」とうそぶいている。これは徳川愚民政策の集中的表現である。
やがてコメからカネ(貨幣と商品経済)へ、経済の重点が移っていった。商品経済に振りまわされた農民は、カネ欲しさに、農地を担保にして、高利のカネを地主や商人・高利貸しなどから借りる。この農民の借金政策は、水呑み百姓の大量生産を、必然的に促した。
「五公五民」は、ついに「六公四民」の猛烈な搾取にまで発展した。幕府の大寒・神尾は、これに関して「百姓は胡麻の油と同じで、絞れば絞るほどよく出る」と公言している。
封建的な搾取は、法令と思想統制まで動因して行なわれた。
例えば、当時の掟は、つぎのように述べている。
一、百姓の衣類は、布、木綿たるべし
一、百姓は雑穀を用い、米を多く食するべからず
一、お茶を飲み、物まいりや遊山を好む女房は離別すべし
一、田畑を永久に売買するを禁ず
一、神事仏事の外は何よらず新しきことをするべからず

「男の子の場合は‘山行きにやった’女の子の場合は‘よもぎ摘みにやった’」

多少、元気のある農民は、ムシロ旗を高く掲げて、首謀者は見せしめのため、断頭台の露と消えていった。‘逃散’を試みた農民は、‘人返しの法 [4]’で逃げ道をはばまれた。
水呑み百姓は、最後の手段を取らざるを得ない。それは主として不用な女の子供を殺す‘間引き’という非常手段を行なうまで、追い詰められていく。飢饉の時は、もちろん、平時においてさえ間引きや赤ちゃん殺しは、公然の秘密として実行される。
当時、男の子を殺すことを「山行きにやった」と言い、女の子を殺害するのを「よもぎ摘みにやった」と称している。
百姓一揆、逃散、間引き、赤ちゃん殺し、人身売買、売春など、農民の悲しい抵抗と犠牲の飢えに、徳川三百年の平和は、築かれたことを、われわれは忘れ得ない。

(引用・データは中島陽一郎「飢餓日本史」より)

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