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漢字の到来・・・文章語としての日本語

さて、日本語の一番のポイントは漢字文化の到来です。
漢字とは言うまでもなく中国の文化ですが、楽浪郡という朝鮮の民族国家の亡命者を介して日本に移入されました。
それまでは縄文語だったわけで、通常、言語を変えるという事は魂を売るに等しい事です。漢字文化を注入されながらも日本流に加工して使いこなしたのです。
ここでも1万年に渡る日本人の精神性が発揮されます。
再び司馬先生の文章を掲載します。
「文章語としての日本語」より

古代、朝鮮半島に、漢の直轄領がありました。これが、楽浪郡であった・・・。紀元前108年からほぼ400年つづいた特別な地域でした。ここに、中国から役人や学者、あるいは画家や建築家などがやってきて、中国文明を移植しました。中国文明を牛乳にたとえるならば、楽浪郡はコンデンス・ミルクのように濃縮された文明の缶詰でした。ところが、4世紀初頭に楽浪郡がほろびます。すでに力を蓄えていた地元の朝鮮民族が、古代的な民族国家をつくります。失業した楽浪郡の知識人や技術者たちあるいはその子孫たちは、その後、朝鮮の民族国家に貢献するとともに、日本にもやってきました。

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この点、古代日本という孤島社会にとって、ユーラシア大陸の一つの突角にある朝鮮半島は重要な役割を果たしました。・・・
古代日本の場合、中国の文字と文章と書物をもたらしたのは、かれらでした。ただい、かれらはほどなく日本の中に埋没してしまいました。残されたのは、日本人が、「漢文」と称んでいた中国の書物だけでした。
8世紀、9世紀ごろの日本人は、それらの書物を日本語流に読みはじめたのです。残された書物だけでなく、あらたに中国から輸入した書物もたくさんありました。それらも、日本語のやり方で読みはじめました。こんな奇妙な外国語獲得の作業をした民族は、世界史に日本人以外にないと思います。
・・・日本人は漢文を読むにあたって、漢文というレンガの建物を崩すことからはじめたのです。くずして孤立してレンガの一つずつを助詞というひもでしばりつけたり、ぶらさげたりして、いわば日本語に作り直して読むという発明をしてしまったのです。日本人は千数百年、ヨーロッパ人にとってラテン語にあたる中国の古典をそのようにして読んできました。
このふしぎな作業が、文章語としての日本語ができあがるために、大きな働きをしたと思います。
日本人は、文章を書くよろこびを知りました。
(「十六の話ー文学から見た日本史」全集54)

さすがに司馬遼太郎先生の文章は絶妙です。日本語は漢文というレンガを崩しながら作っていったというのは実に見事な表現です。
おそらく、漢文を注入されたのではなく、先生も居ない中で外国語を勉強したように自ら進んで取り入れていったのではないでしょうか?だから自己流で、自己流だからこそカナが生まれたのだと思います。
その後の日本のカナ文化を司馬先生はこのように書いています。

日本人は、抽象概念を考えたり語ったりすることを、六朝から隋唐時代の中国語を導入することによって知った。抽象概念だけでなく事実を書きしるすことも、中国語によって知った。
漢字の大量導入の時期は推古朝(7世紀はじめ)と考えていいと思うが、つぎの8世紀のはじめにはもう『古事記』が成立している。『古事記』はいうまでもなく漢文ではない。漢字の音だけを借りて大和言葉をうつすための「仮名」とし、すべて当時の大和言葉によって書かれている。上代としては大部の著作でありながら、使われている漢字はわずか1600字にすぎない。後続する『万葉集』においても、使われている漢字は2600字だという。これがやがて平安朝の和歌や物語になると、50字の仮名でまかなえるようになる。
やがて中世末期から近世初頭にかけて、漢語まじりの文章記述の型が確立し、室町期の狂言や物語本、戦記物の普及なども手伝って、たれでも少々の漢字を覚えているだけで、相当な文章表現を身につけるようになった。・・・
「歴史の舞台ー漢字と孔子」全集54)~
東北伝承館 [3]

私たちが普段何気なく使っている日本語もこのように先人の不屈の工夫試行で作り上げられてきたのです。

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