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弥生期の人口増は大量渡来か、それとも稲作化によるものか?

こんにちは、simasannです。
弥生から古墳時代にかけて、下表のように急激に人口が増えていったことは、ご存知の方も多いと思います。
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http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htmより引用
これについては、このブログでも以前tanoさんが投稿している、 「二重構造モデル」 [1]を提唱する埴原和郎さんの①「100万人規模の大量の渡来人によるもの」とする説と、
九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授らが提唱する②「少数の渡来人による水稲耕作化と長寿命化によるもの」の2つの説があります。
考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」というように、現在もなお論争が続いています。
それぞれの主張は、そして、どっちがホント?、知りたいと思った方は、ポチッとお願いします。
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①渡来人説
埴原和郎さんは『岩波日本通史』の第1巻「日本人の形成」という論文で、人骨の研究から渡来人と在来の縄文人との混血はほとんどなく、両者は各地で住み分けていたのではないかとの仮説を提示した後で次のように述べている。
 「紀元前3世紀から7世紀までの1000年間にやってきた渡来人の数を、縄文時代から初期歴史時代までの人口増加率と縄文末期から古墳末期にいたる頭骨の時代的変化を指標として推定してみた。(その結果は)7世紀までに渡来人の人口は日本人全体の70%から90%にたっし、とくにその割合は近畿を中心とする西日本に高かったと思われる。そうするとこの1000年間に数十万人から100万人以上が渡来したことになり、渡来人の総数は想像以上に多かったということになる」
と。
以上http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/edu/edu15.htm [4]より
一方
②水稲耕作化説
九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授は弥生時代の人口増加率について、
「狩猟採集生活を続ける縄文人の人口増加率を年率0.1%以下に、農耕社会を営む渡来人の人口の増加率を1.3%にそれぞれ仮定し、仮に北九州で100人の縄文人の住むところに10人ほどの渡来人が来たとケースを想定すると、300年程度で、渡来人がこの地域の8割を占めることが可能である」
という研究を発表しています。http://news.livedoor.com/article/detail/1285931/ [5]より
また、これについてるいネットで、以下のような投稿を見つけましたので紹介します。
この時期の渡来人の影響が大きいことは確かです。しかし一方で、縄文の文化は後世に継承されている、つまり縄文人を駆逐するまでには至らなかったとも言えます。例えば、渡来人によって営まれた水田をもつ環濠集落においても、水田稲作用の新しい農具や工具が持ち込まれている一方で、土器などその他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないのが実状で、何よりも縄文の婚姻制は戦後に至るまで継承されています。
 縄文系の平均寿命はわずか14歳、これに対して渡来系は25歳。現代人との落差は専ら乳幼児の死亡率が非常に高いためである。乳幼児期の危機を乗り切った15歳の女性の平均余命は、縄文系が16年であるに対して、渡来系は30年を超えている。つまり出産可能期間が16年から30年へと倍増しており、渡来系の人々の方が子だくさんだった可能性が高い。水田稲作という安定した生産基盤がもつ高い人口支持力、良好な栄養状態に支えられた長い寿命と多産。渡来系の人々は縄文系の人々に比べてはるかに増殖力の高い人たちだった。
以上、るいネット岡本氏「大量渡来か少数渡来か(1)」 [6]より
現在でも、日本人が縄文人の気質を色濃く残していることを考えれば、100万人クラスの渡来人が来て縄文人を支配していったとは非常に考えにくいと思います。当時、大陸で起こったいたような大規模な戦争の形跡もなく、少数の渡来人が来て、縄文人と混血するなかから徐々に血を濃くしていった、というのが素直な解釈だと思いますが、みなさんどうでしょうか?

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