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波状的に遊牧民がやってきた古代中国 ~殷(商)・周~

殷は、存在がはっきりしている最初の中国古代国家と言われている。
その成り立ちは西方からの遊牧民による征服王朝のようだ。
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[紀元前1500年前頃の部族分布](中国通史 [1]より拝借)※商は殷を示す
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殷王朝の出自について [4]より引用
>この王朝の記録をみると、その帝都の移転がしばしば行われていたことにまず注目させられる。
>留意すべきことは、本来遊牧民というものは、一定常住の都を持たないということである。羊を飼うことを中心とする牧畜民は、牧草を追って常に移動する生活様式である。
>つまり大集団である遊牧族は、王庭を転々と変える流浪・漂泊を重ねる生活がその実態であった。そのため定着帰農生活になった後にも、殷族はまだこの移動性の習性を持ち続けていたことを示すものであろうか。

>次に、中国では古く天・地の神を祀ったり、祖先の霊魂を慰撫するために祭る際に、犠牲というものを供える風習があった。それは彼等の生活の中で、祖先に民族的な最高の重要食糧を用いることに意義があったのである。後には太牢などという牛、羊、家(いのこ・ぶた)の三種の動物が主ともなった。
>牧民というものは、全く羊群を追って牧草を求めて、各地を転々とするのが本来の姿である。曲説すれば、西方族の多くが遊牧民と化し、東部地域へ流入したことは、正に羊があっての現象であるともいえる。また、羊を犠牲に用いるということは、単に牧畜民族というより、それはもと遊牧民族であった片鱗を示すものである。
>すると殷帝国の動物犠牲の中の羊の多用をみては、殷族はもと遊牧民として中国に流入した一種族である可能性を窺わせるものである。これを裏付けるものに、上記殷族の主用食糧の大麦も西アジア原産種であるという点である。
黄河文明は恐怖の人骨文明か !? [5]の人骨は、殷の宿敵であった羌の霊力を恐れて、次々と首を切り落としたものらしい。(参照:「四大文明(中国)」NHKスペシャル)
つまりこの時期には、西北方面ルートから遊牧民が波状的に来襲し、次々と中国各地を占拠し征服していった。そして遊牧民の中で強大化した勢力同士が争い、征服王朝を開いた。それが殷であり、次に周だったのではないか?
中国では有史以後も、元や清など遊牧民の征服王朝が現われるが、その基本系は最初の古代国家の時から同じだった。殷以前の竜山文化などについても、西アジアからの遊牧民掠奪闘争の玉突きが波及している可能性が高い。
以上より、中国の漢民族の成り立ちは、西方からの遊牧民が波状的に来襲して、塗り重ねられてきたのではないだろうか?父系の宗族(参照 [6])は、その遊牧父系の部族集団の名残りと考えられる。父系の部族同士は、闘争を経て上下序列関係(→部族連合)を結び、国家体制を作った。
その際に元々住んでいた母系の部族(苗族)などは、隷属または駆逐され、母系部族は現在のように辺境の一部に残るだけとなった。
(by Hiroshi)

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