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神々は、敬う存在から民を支配する為に利用される存在に変わった

前回はアッカド王朝時代のナラム・シンという王様のことを紹介しました。
王こそ神であると称したこの王様の意識は、まさしく神様とは自分達を守ってくれる存在というよりは、神=尊厳な存在であり、その神と自分は同一であるから自分は全ての民の上に立ち支配する必要がある、といっているわけですね。 👿
これに関しては古代の「神」に対する扱いの変遷がよくわかる投稿がありました。
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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=140535 [3]
自然の万物の背景に精霊を見ていた精霊信仰から、自然神→人格神へと移り変わってきた背景を整理すると、結局は自分達の行いを全て正当化するために利用していることがわかります。
自然神:自然界の「強い」生き物が神 ex.熊、鷹・・・・
遊牧部族が父系性に転換し力の原理で集団を統合し、自集団の利益第一から自分達だけを守って欲しいという観念発生
 →「自集団第一」の考えを正当化するために、「守護神」に守られている自分達は正しいと理屈化する必要があった。
人格神:人の形をした神。動物よりもさらに”強そう””偉そう”
他集団を掠奪することの正当化
 →①の段階よりも更に身勝手な行動である為、更に強い(偉い)神様が自分達の見方であることを作り出す必要があった。
守護神の信託者=王、神官、最高神と王の同一化
掠奪闘争に勝った部族が他部族を支配する為、被支配部族を納得させる為の観念が必要だった
    →(支配側である)自分達の存在自体が正しい=神から認められた存在
    →神官・知識階級の専門職化
    →王=神である 😈
非常に分かりやすいといえば分かりやすいですが、なんとも身勝手に神様を利用していますね。
まさしく自分第一の自我観念の塊だったといえます。

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