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北の古代史~続縄文

先日のエントリーで、tanoさんが、縄文時代の区分を紹介されていますが、北海道においては、本州の縄文時代が終わった後も、縄文時代が続いており、さらにその次に「続縄文」という時代があったようです。
実は、何を隠そう私も「続縄文」という言葉を知ったのは、つい最近のことでして、「えっ、縄文時代には続きがあったの?」と、ちょっと驚いたので、調べてみました。
まずは、北海道における時代区分。
約30,000年前~10,000年前  :旧石器文化
約10,000年前~約1,800年前 :縄文文化(早~晩期までの5期区分)
約1800年~1500年前       :続縄文文化
約1200年~600年前        :擦文文化 
約1200年~600年前        :オホーツク文化
約600年~200年前         :アイヌ文化
約200年~現在            :近・現代(和人による支配、同化政策)

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http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html [1]
(アイヌ文化入門より)
 
 
上記年表をみると、本州が弥生に入ったあとも、しばらくは縄文時代が続いた後に、続縄文時代に入ったことがわかります。
では、縄文文化と、続縄文文化との違いはどこにあるのでしょうか。
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縄文文化は、縄文土器、それに打製・磨製の石器を使用し、弓矢とイヌ、銛と丸木舟で狩猟や漁撈を行ない、漆などの高度な技術をもち、竪穴住居に住むといった文化であった。
 ところが、紀元前4世紀ごろ、大陸から朝鮮半島を経て稲作栽培と鉄など金属器製作技術をもった人々が北九州にやってきた。弥生文化の成立である。稲作や鉄、青銅などの利器、布を織る技術などを持つ文化は、その後5、600年の間に列島を駆け抜け、津軽半島まで達する。
 ところが、元来、熱帯の作物である稲の栽培は、津軽海峡を渡ることができず、北海道は前時代から続いた狩猟、漁撈、採集を主とした生活が続いた。もともと山海の食料資源が豊富な本道では、米は必要としなかったとも考えられる。ただ、鉄器などの金属利器は弥生文化圏からとり入れた。この特色ある時代を続縄文時代、続縄文文化と呼んでいる。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200111/1105_01.html [4]
(北の縄文 断思 北海道開拓の村学芸課長 野村祟氏)

大きく捉えると、狩猟(漁労)・採取といった生活様式は縄文文化のままで、弥生文化圏由来の鉄器を使用しているという点で、時代を区分しているんですね。
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<常呂川河口遺跡で出土した鉄器(小刀)>
その他どのような生活等を営んでいたかの補足として、
続縄文文化の人々は竪穴式住居に住み、狩猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行った。縄文時代と比べ、魚介と海獣の比重が大きかった。アワ・キビ・ヒエ・ソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高い。遺物となった道具としては、石斧、石ナイフなど多様な石器がある。他に本州製の鉄製品が入り込み、後期には鉄器の普及が石器製作技術の衰退を招いた形跡がある。骨角器も多く出土している。遺物として残りにくい木器と繊維製品は出土数こそ少ないが、当時は盛んに用いられていたと考えられる。
続縄文時代には、北海道北部が大陸・樺太方面から、北海道南西部が本州からの文化と産物の流入の窓口になっていた。北方産とみられる琥珀製の玉類が北海道から東北地方北部にまで分布し、佐渡島産とみられる碧玉製の管玉が石狩川河口付近までみられる。逆に続縄文文化が北海道の外に拡大する動きもあり、樺太南部や東北地方北部、千島列島に広がっていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 [5]
(ウィキペディア:続縄文時代)
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<こはく平玉:滝里遺跡:紀元前3世紀頃>
山や海の豊かな自然から恵みをいただく一方で、縄文時代から脈々と受け継がれてきた自然に対しての畏敬の念や感謝の想いも持ち合わせていたと思われます。
そんな彼らの想いを感じさせる遺物として、骨角製品や土製品等の道具に、クマや海獣など身近に存在していた動物をモチーフにしたものが多く発掘されています。
少し長くなりますが、以下に、それらを紹介したいと思います。
(結構、可愛いです...)
 
 
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<熊の土器の写真:続縄文時代初頭>
 
 
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<蛙意匠の土器:西竹遺跡>
 
 
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<クマの頭部形石製品:続縄文時代初頭:高砂遺跡、滝里遺跡、旧豊平河畔遺跡>
 
 
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<骨角器全景>
 
 
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<熊の意匠の骨角器:続縄文時代恵山文化期:有珠モシリ遺跡>
 
 
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<かめ・いるか・鯨の意匠の骨角器:続縄文時代恵山文化期:恵山貝塚>
 
 
自然にも恵まれ栄えていた続縄文文化でしたが、本州が古墳時代に入ると、やがて本州の強い影響をうける形で、7世紀頃に擦文(さつもん)文化へと移行していきます。
今回、「続縄文ってなに?」といった疑問から、調べてみましたが、、本州の弥生文化を中心とした視点からみると、北の辺境の地としか映っていなかった北海道が、実は、弥生以降アイヌ文化へと至る過程で、本州とは異なる独自の文化の歴史を刻んでいることを知ることになりました。
擦文文化以降のアイヌへと繋がる歴史の続きは、またの機会にでも、紹介できればと思います。

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