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卑弥呼伝説を明らかにする(2)

こんばんわ! 😀 tanoです。
前回の投稿から~以上から卑弥呼は海部氏の家系の人物(第6代孫)であると特定できるようだ。
さて海部氏とはなんだろうか?丹後半島に弥生時代に海部氏の足跡がある。卑弥呼を説く鍵は丹後半島にあった。次回に続く・・・。
今回も日本建国史 [1]さんから紹介します。
私は弥生時代の強力な王権は、稲作に適した平野部に生まれたと考えていた。
なのに丹後地方は、日本海に面した山の中である。卑弥呼を擁立するような、王権が生まれるなど、とても信じ難い。
しかし、私の疑問を解く発掘がある。

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1998年9月、京都府与謝郡岩滝町、大風呂南墳墓群から出土した副葬品である。
大風呂南墳墓群は『勘注系図』が伝えられてきた、籠神社や天の橋立を見下ろす、見晴らしの良い丘陵部に築造されている。
築造は弥生後期、おおよそ西暦200年前後と推定される。
中でも1号墳墓から出土した副葬品は、11本の鉄刀、13個の銅製腕輪、1個の青色ガラス腕輪、いくつかのガラス勾玉、緑色凝灰岩製の管玉など、弥生時代の副葬品としてはトップクラスの豪華さである。
特に11本という鉄刀の数は、同時代の副葬品としては最大数を誇る。

また青色に輝くガラス製腕輪は、他に類を見ない美しい物である。
私が田舎、地方と決め付けていた、丹後の弥生墳墓は、他の地域を凌駕する、豊富な鉄製品やガラス装飾品を保有しているのである。

鉄素材やガラス素材は、当時の日本列島では入手できない。
丹後の王権が独自に朝鮮半島と交易し、鉄素材やガラス素材を入手し、これを加工、他の地域に流通させていた可能性をうかがわせる。稲作だけが王権の経済基盤でないことを見せ付ける遺跡である。
丹後には、鉄やガラスの交易によってもたらされた経済力を背景に、強力な王権が存在していたのである。

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さて、それでは卑弥呼の発祥の土地丹後半島へトリップしてください。
リンク [4]
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「日本最古の高地性周濠遺跡」として峰山町の「扇谷遺跡」の記事が掲載された。
平野から30~40mの高さにある、竹野川流域を一望する丘陵に営まれた大環濠遺跡である。弥生前期末から中期にかけて(1世紀末~2世紀初頭)、の高地性集落で、二重の環濠が巡らされ、V字形の内濠は延長1km、最大幅6m、深さ4mという巨大な環濠であった。まさしく環濠とは防御の為の施設であることを証明しているような遺跡で、自力では這い上がれないような深さである。
この環濠から、鉄滓(てっさい)、ガラス滓、紡錘車、玉造関連の遺物などが出土した。これらの遺物から、当時すでに製糸や鉄器、ガラスの製造が行われていたことが判明した。これらはその後、弥生の丹後の「特産品」とも言える地位を確立する。この時期、鉄製品やガラス玉生産は、近畿の他の地域では全く行われていない。

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この事から卑弥呼を生み出した海部氏の集落は中国に発祥のある環濠式であった事があきらかになる。海部氏とはおそらく中国の高度な文明をもたらした当事最も力のあった集団ではないだろうか?弥生初期にはその部族の勢力は畿内まで達していたと思われる。
それが弥生中期には西方から来た朝鮮系(天皇系)部族と衝突し、一時は並存し、やがて駆逐されていくという流れではないだろうか?だから古事記にも日本書紀にも書かれない、邪馬台国が作った歴史はその後国造り神話をでっち上げる天皇系部族にとって決して歓迎されない歴史だったのだと思う。
だから卑弥呼は日巫女として伝説上の人物として闇のままなのではないか?

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